エレミヤ書21章について その4

「この町にとどまる者」が「剣とききんと疫病で死ぬ」のに対して、21章9節(その3、中ほど)1行目から、「・・・出て、あなたがたを囲んでいるカルデヤ人にくだる者は、生きて、そのいのちは彼の分捕り物となる。」とあります。「彼の分捕り物」の「彼」というのは、「あなたがたを囲んでいるカルデヤ人にくだる者」のこと、と言うことができると思います。

 

「あなたがたを囲んでいるカルデヤ人にくだる者は、生きて、そのいのちは彼の分捕り物となる。」の「そのいのちは彼の分捕り物となる」というのは、カルデヤ人にくだる者は、自分のいのちを「分捕る」、つまり、自分のいのちを自分のものにする、言い換えると、そのいのちは助かる、ということである、と言うことができると思います。

 

エレミヤ書21章8節に、次のように書かれています。
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21章8節
「あなたは、この民に言え。
はこう仰せられる。『見よ。わたしはあなたがたの前に、いのちの道と死の道を置く。
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2行目から、「・・・わたしはあなたがたの前に、いのちの道と死の道を置く。」とあります。21章7節(その3、冒頭)と、21章9節(その3、中ほど)の前半部分に書かれていることは「死の道」であり、21章9節(同)の「・・・出て、・・・」からあとに書かれていることは「いのちの道」である、ということではないでしょうか。

 

つまり、「・・・ユダの王ゼデキヤと、その家来と、その民と、この町で、疫病や剣やききんからのがれて生き残った者たち・・・」は、バビロンの王ネブカデレザルの手に渡される(21章7節)のであるが、「この町にとどまる」なら、その者は「死の道」を歩む、すなわち、「剣とききんと疫病で死ぬ」(21章9節)。

 

一方、「・・・出て、あなたがたを囲んでいるカルデヤ人にくだる者」は「いのちの道」を歩む、すなわち、「生きて、そのいのちは彼の分捕り物となる」、ということではないか、と思いますが、いかがでしょうか。

 

21章7節の「・・・彼は彼らを剣の刃で打ち、彼らを惜しまず、容赦せず、あわれまない。」の「彼ら」というのは、「ユダの王ゼデキヤと、その家来と、その民と、この町で、疫病や剣やききんからのがれて生き残った者たち」のうち、「死の道」を歩む者たちのことではないでしょうか。言い換えると、「この町にとどまる者」たち、のことではないでしょうか。

 

ユダの王ゼデキヤは、「カルデヤ人にくだる」ので、「剣で死ぬことはない」(34章4節)、すなわち、「剣の刃で打」(21章7節)たれることはない、ということになるのではないか、と思われます。つまり、21章7節の「彼ら」には含まれない、ということになります。

 

また、「・・・この町で、疫病や剣やききんからのがれて生き残った者たち・・・」(21章7節)については、そのうちのカルデヤ人にくだる者たちは、「生きる」と考えられ、「剣の刃で打」(21章7節)たれることはないのではないか、と思われます。これらの者たちも、ユダの王ゼデキヤと同様に、「彼ら」(21章7節)の中には含まれない、ということになります。

 

一方、カルデヤ人にくだることをしない者たちについては、「彼(すなわち、バビロンの王ネブカデレザル)は彼らを剣の刃で打ち、彼らを惜しまず、容赦せず、あわれまない。」(21章7節)ということになると思います。

 

どのように思われるでしょうか。

エレミヤ書21章について その3

新改訳聖書』第3版のエレミヤ書21章7節に、次のように書かれています。
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21章7節
そのあとで、―の御(み)告げ―わたしはユダの王ゼデキヤと、その家来と、その民と、この町で、疫病や剣やききんからのがれて生き残った者たちとを、バビロンの王ネブカデレザルの手、敵の手、いのちをねらう者たちの手に渡す。彼は彼らを剣の刃で打ち、彼らを惜しまず、容赦せず、あわれまない。』」
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1行目から、「・・・わたしはユダの王ゼデキヤと、その家来と、その民と、この町で、疫病や剣やききんからのがれて生き残った者たちとを、バビロンの王ネブカデレザルの手、敵の手、いのちをねらう者たちの手に渡す。・・・」とあります。

 

「わたし」が「バビロンの王ネブカデレザルの手・・・に渡す」のは、「ユダの王ゼデキヤと、その家来と、その民と、この町で、疫病や剣やききんからのがれて生き残った者たち」です。この点については、何も問題は無いと思います。

 

次に、4行目から、「・・・彼は彼らを剣の刃で打ち、彼らを惜しまず、容赦せず、あわれまない。」とあります。

 

わたしは以前、エレミヤ書21章について その1(2019-11-11)で、この中の「彼ら」が指しているものは何か、ということについて質問をし、「その2」(2019-11-13)で、「彼ら」が指しているものについて、少し、述べました。

 

その際、エレミヤ書34章4節(その2)の記述より、「彼ら」の中に、『「ユダの王ゼデキヤ」を含めるのは、適切ではない、と思います。』と述べました。

 

エレミヤ書34章4節の「・・・あなた(すなわち、ユダの王ゼデキヤ)は剣で死ぬことはない。」という記述より、ユダの王ゼデキヤは「剣の刃で打」(21章7節)たれることはない、と考えられます。

 

ユダの王ゼデキヤが「剣の刃で打」たれることはないとすると、ユダの王ゼデキヤは、「彼ら」(21章7節)の中には含まれない、ということになります。

 

ユダの王ゼデキヤは21章7節の「彼ら」の中には含まれない、と考えられるのですが、「・・・この町で、疫病や剣やききんからのがれて生き残った者たち・・・」(21章7節)についてはどうでしょうか。

 

21章9節に、次のように書かれています。
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21章9節
この町にとどまる者は、剣とききんと疫病で死ぬが、出て、あなたがたを囲んでいるカルデヤ人にくだる者は、生きて、そのいのちは彼の分捕り物となる。
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1行目に、「この町にとどまる者・・・」とあります。これは、「この町で、疫病や剣やききんからのがれて生き残った者たち」(21章7節)のことでしょうか。

 

仮に、「この町にとどまる者」が「この町で、疫病や剣やききんからのがれて生き残った者たち」だとすると、「この町にとどまる者は、剣とききんと疫病で死ぬ」(21章9節)とあるので、「この町で、疫病や剣やききんからのがれて生き残った者たち」は、疫病や剣やききんからのがれたのに、「剣とききんと疫病で死ぬ」(21章9節)、ということになります。

 

「この町にとどまる者」については、21章4節の、バビロンの王とカルデヤ人が「城壁の外からあなたがたを囲んでいる」ときから見て「とどまる」、と考えることもできると思います。

 

囲まれているときに、疫病がある場合、「この町にとどまる」なら、町の中で疫病で死ぬ、ということになります。

 

町の中に疫病があるために、町の外に出ると、カルデヤ人の剣が待っています。そうすると、剣で死ぬ、ということになります。

 

囲まれているときに、ききんがある場合、「この町にとどまる」なら、町の中でききんで死ぬ、ということになります。

 

おそらく、ですが、町の中に、ききんと疫病があるために、町の外に逃げて、カルデヤ人にくだるなら、「この町で、疫病や剣やききんからのがれて生き残った者たち」(21章7節)であっても、「生きる」のではないか、と思われます。

 

その4、に続きます。

hhhhhh210さんへ

『2020-05-02 hhhhhh210さんへ 「LEさんへ その63」について』のコメントについて


『2020-05-02 hhhhhh210さんへ 「LEさんへ その63」について』のコメントに、「・・・この中断した機会にLEさんとのやり取りをやめようかなと考えています。この投稿には、よく調べてまたよく考えてから書かないといけないので、私にはかなり時間を取られます。他のことをする時間を削らなければならなくなります。」とあります。

 

わたしとしては、hhhhhh210さんのご投稿が1年後になっても、2年後になっても、いっこうに構いません。hhhhhh210さんの時間の許す限りで投稿してくださるなら、それでよいのです。「・・・よく調べてまたよく考えてから書かないといけない・・・」とあります。聖書をじっくりと読み込み、深く考えて得られた理解に基づいたご投稿を希望します。

 

また、「・・・LEさんとのやり取りは、終わりが見えず(ちょうどコロナのように)延々と続いていきます。したがって、今継続しようかどうしようか迷っているところです。」とあります。

 

わたしとしては、「延々と続いて」いったほうがよいと考えます。なぜかと言いますと、その間に、聖書についての間違った理解は排除され、聖書を正しく理解する方向に進む望みがあるからです。

 

しかし、どのようにされるかは、hhhhhh210さんにお任せします。

hhhhhh210さんへ

「430年について LEさんの投稿のその9までを読んで」について

 

ありがとうございます。

 

『2020-05-02 hhhhhh210さんへ 「LEさんへ その63」について』のコメントに、「今疑問に思い出したのですが、LEさんのご説明、ケハテの年数とヨセフの年数がダブルカウントになっているのではないでしょうか?」とあります。

 

すばらしいご指摘、ありがとうございます。ケハテの年数とヨセフの年数がダブルカウントになっていました。

 

再度、考えます。

 

ひとつお訊きします。『新改訳聖書』第3版の出エジプト記章6節に、次のように書かれています。
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1章6節
そしてヨセフもその兄弟たちも、またその時代の人々もみな死んだ。
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この中の「・・・その時代の人々・・・」というのは、どのように理解されますか。どんな人々だと思われますか。

 

よろしくお願いいたします。

hhhhhh210さんへ

「LEさんへ その63」について

 

ありがとうございます。

 

わたしは以前、hhhhhh210さんへ「LEさんへ その50」について(2020-03-05)、の中で、
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・・・
また、ちょっと視点を変えて、『新改訳聖書』第3版の創世記17章8節についてお訊きします。次のように書かれています。
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17章8節
わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後(のち)のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは彼らの神となる。
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最後の行に、「・・・わたしは彼らの神となる。」とあります。この「わたしは彼らの神となる」というのは、いつのことだと思われますか。
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と述べました。

 

これと関連して、leafy888's diaryに、「神となる」について、を投稿しました。参考にしていただければ、と思います。URLはこちらです。2020年4月7日の投稿からです。
https://leafy888.hatenablog.com/

 

「それでは、LEさんは神がアブラハム、またアブラハムの子孫の神となったのはいつだとお考えですか?」(LEさんへ その61 2020-03-10)について、ですが、「アブラハムの子孫」が「キリスト」だとすると、アブラハムの子孫の神となったのは、エスが「復活」してからあとのことだと考えています。

 

アブラハムの神となった」のはいつか、ですが、現時点では、これも、キリストが「復活」してからあとのことだと考えています。キリストが「復活」してからあとのいつか、については、考えはありますが、いろいろな点について、もっと検討してから述べようと思います。

「430年についての その1からその5について NO.1 」について

出エジプト 12:40 の430年は エジプトの地にそしてカナンの地に ということでよいように思います。」とおっしゃっていただき、ありがとうございます。

 

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ガラテヤ3:17の神によって結ばれた契約 については ヤコブと結ばれた契約ではなく、アブラハムと結ばれた契約(創世記12章で)

ということになると思います。


おそらく(おそらくですが)アブラハムと結ばれた契約からでないと430年にはならないと思います。
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とあります。

 

leafy888's diaryに、「四百三十年」について 「その6」から「その9」まで、を投稿しました。「四百三十年」の「内訳」について考えています。参考にしていただければ、と思います。URLはこちらです。2020年3月30日の投稿からです。

https://leafy888.hatenablog.com/