よい知らせ その1

「神」と言うと、反応は、さまざまあると思います。
 
そして、人それぞれ、さまざまな神や仏を信じていたり、あるいは、全く信じてない、という人も、もちろんいると思います。
 
わたしは、以前は、「神」について、全く考えたことは、ありませんでした。全く意識することは無く、「神」が存在する、などということは、頭の片隅にすら無く、信じる信じないという以前の、いわば「白紙」の状態でした。
 
ただ、漠然と、存在しないと思っていました。
 
でも、今は、存在する、と考えています。わたしの言う「神」とは、「聖書の神」です。
 
「聖書の神」というのは、キリスト教ユダヤ教の神です。イスラム教の神については、よく分からないので、何とも言えないのですが、聖書に登場する「アブラハムという人の子供で、「イシュマエル」という人がいるのですが、その「イシュマエル」という人の流れをくむ人が始めた宗教ではないか、と思っています。間違っていたら、すいません。間違っていることが分かった時点で、修正します。
 
それで、「聖書の神」の存在を知る前と知った後の、大きな違いは何かというと、それは、「心の状態」です。知る前は、「不安」というものが、消えることは無く、折りに触れては「心」に上(のぼ)ってきていました。しかし、知った後は、「平安」が、「心」を「支配」し、「平安」な状態が続きます。将来に対する不安もありません。
 
これについては、また、別の機会に、話したいと思います。
 
この「心の平安」というのは、実は、「聖書の神」が与えてくださっていることを、わたしは、知っています。このようなことを言うと、「お前に何が分かるのか」というようなことを言う人が現れるのを、容易に想像できます。まあ、わたしも、逆の立場だったら、「お前に何が分かるのか」と言いそうです。だから、そう言う人のことも、分からないではありません。「聖書の神」を知る前のわたしだったら、そのようなことを言う、というのは、きわめて、ありそうです。
 
今回の投稿記事を「締めくくる」と、「聖書の神」を知ってから、わたしは、「心の平安」を得ることができた、ということです。
 
ありがとうございました。