よい知らせ その2

わたしが初めて「聖書」と出会ったのは、大学生のときです。
 
大学に、「生協」というのがありまして、その中の書籍を販売しているところの一角に、「国際ギデオン協会」が配布している聖書が積まれていました。
 
無料だったので、一冊もらいました。「もらいました。」と言っても、ただ黙って持ってきただけです。
 
この聖書は、「新約聖書」だけなんですが、つまり、「旧約聖書」は含まれていませんが、1ページの中に、1ページを縦に半分にして、左側に英文、右側に日本語の文が載っているというものです。英語の勉強になるかな、というような軽い気持ちで持ってきました。
  
中を見ると、初めのほうに、「おりにかなう助け」とあって、その下に、「その時あなたはここを読んでください」とあります。
 
そして、「祈りたい時」「意気消沈した時」「疑いがおこった時」など、全部で30個の「おり」があります。
  
二十歳(はたち)前後のころで、そのころには、不安があったり、苦しいときがあったりで、たま~に、「おりにかなう助け」の、該当箇所を読んだりしていました。多少効果はあったように思います。「効果」というのは、少し不安が解消されたり、苦しさがやわらいだり、といったことです。
  
しかし、「不安」や「苦しさ」が無くなる、ということはありませんでした。そういう不安な時や苦しい時には、「酒」に頼っていました。若い時だったこともあり、「酒」はよく飲んでいました。「酒」と言っても、日本酒だけではなく、ビールやウィスキーもです。「たばこ」も吸っていました。
  
一方、聖書については、本当に、「たま~に」で、ほとんど読むことはありませんでした。それから何年も過ぎ、三十歳前後のころですが、そのころわたしは、会社に勤めていました。その会社に、クリスチャンの方がいて、どういうわけか知り合いになり、また、聖書を読むようになりました。
  
会社で働くことができて、収入面では、不安は無かったのですが、だからと言って「平安」でもなく、ただ漠然とした「不安」というものがありました。そのころも、「酒」はよく飲んでいました。「たばこ」も吸っていました。
  
そのような状況にあって、たまに聖書を読むと、「心が落ち着く」という体験をします。
 
もちろん、内容は分かっていません。正確に言うと、分かることもあれば、分からないこともある、しかし、分からないことのほうが多い、となります。
  
読むと「心が落ち着く」というのは、一見、たいしたことがないことのように思えます。
 
しかし、今思うと、まるで、ボクシングの「ボディーブロー」のように、じわじわと効いてきていたのかなあ、と思います。つまり、「心が落ち着く」というのが心地よいためだと思うのですが、読む頻度が確実に増して、聖書が少しずつわたしの中に入り込んできた、ということです。ボクシングの「ボディーブロー」の場合は、苦しい方向に向かうと思いますが、聖書を読む場合は、心地よい方向に向かうと思います。
  
ただ、聖書は、やはり、難しくて、なかなか読もうという気にならないこともあります。
  
聖書に書かれていることは、本当のことだ、と思う人もいれば、そうでないと思う人もいると思います。わたしの場合は、仏教やイスラム教やヒンズー教ユダヤ教は、単に「肌が合わない」ので、あまり興味がありません。それに対して、聖書に書かれていることには、非常に興味があります。
  
例えば、聖書の中に、「永遠のいのち」という言葉が何度も出てきます。「永遠のいのち」って、なんだろうと思います。一見すると、死ぬことが無く、ずっと生き続けられる、ということのように思えます。
  
わたしたち人間は、必ず死にます。一人の例外もなく、です。死ぬのは怖いと思われる人は多いと思いますが、わたしもその一人、「でした」。実際に、死に直面した場合はどうか分かりませんが、今は、恐怖は感じません。それは、聖書を読むと、その中に、分かりやすく言うと、「人は死ぬけども、生き返る」ということが、書かれていて、しかも聖書に書かれていることは、わたしには、嘘だとは、思えないからです。
  
確かに、「人は死ぬけども、生き返る」なんていうことは、にわかには信じられません。しかし、イエスという人について、聖書には、驚くほど詳細な記述があります。
 
この詳細な記述を読むと、これが単なる「伝説」あるいは、「伝説のようなもの」とは思えないのです。
  
聖書には、イエスが死んで、復活した、つまり生き返ったことが書かれています。
 
これは嘘だ、と思うのはその人の自由なのですが、もし嘘だとしたら、世界中の、イエスに信仰を置く人々はどうなるでしょうか。
  
嘘だから、復活しないことになります。復活しないということになれば、その人たちは、聖書に書かれていることが、嘘だったかどうかは分からない、ということになります。復活しないわけですから、失望することもありません。仮に嘘だったとしても、なにも起こらない、と言えるのです。それは、復活を信じない人と同じ状況になるだけのことで、何の益にもならなければ、何の不利益にもならないのです。
  
しかし逆に、もし聖書に書かれていることが本当だったとしたらどうでしょうか。「死ぬけども、復活する、生き返る」、そしてその後(あと)、「永遠に生きる」ということになると、これは、ものすごいことだ思います。
  
聖書には、このものすごいことが書かれている、と思います。